バズるのはたぶんムリと自覚してから

のっぴきならぬ状況なのだ。バズるのはたぶんムリと自覚してしまった以上、金になりそうのないことをやっている場合ではない。月の労働時間は300時間をこえている。おまけに娘がうまれたばかりだ。遊んでるひまなんてない。ていうか寝る間もほとんどない。しかしながらじぶんにできることはかなり少ない。車も運転できない。正確には、ATならたぶんできるが許可がない。履歴書の特技欄に書くことがないもない。じぶんには中身がちっともない。今思えば、20代で活躍している人たちがスペックと呼ぶべきものをつくりあげているあいだじぶんはずっとアルバイトと考えごとばかりしていた。こうなるのもしかたあるまいと思う。

書きたいことはいろいろあるがじぶんのことばかり語っても世界は動かせないから、明日からは他人のことを考えようと思う。じぶんのことを書けば、それがそのまま、恵まれて育った人たちへの恨み言になる。呪詛にもなるし、じぶんは考えごとがとっても得意なので、それでお金を稼ぎたい。インプットしたいことはたくさんあるけれど、その時間がとれないから、汚い雑巾の汁のようなものでも絞って飲むしかない。

幸福感をキーワードになにかすすめていきたい。じぶんはそればかりだ。好きなことで稼ぎたい。そうでないとじぶんは幸福ではないから。

バズるのはたぶんムリ

じぶんは音楽や文学やが好きなのでレビューをしようと思った、ということは先日書いた。参考になればと思って流行りのウェブマガジンを読んでみたが、あれはじぶんには書けないと思う。はっきり言って内容などどうでもいいのだ、バズるには文体がネット仕様になっている必要がある。ネットで読まれる文章はじぶんの書きたい・書ける文章とこうも違うのかと驚いたし、正直くだらないなと思った。それでもやる必要があるのかどうか、そればかり考えている。文体模写は得意だ。一読で別な内容をかなり寄せて書くことができると思う。いきなりあのウェブマガジンを丸投げされても、たぶんしばらくはバレない。そのキモさにじぶんが耐えられればの話だ。じぶんはじぶんの文体を守ったうえで中身のあるものを書きたいし、そうすることでしか救われないと思う。抽象的な意味で、いまやるべきことは時代や状況を「やり過ごす」「しのぐ」ことただそれだけなのだが、その方法がおもねることなのかじっとしていることなのか、はかりかねる。

飲食店で店長のようなことをしている。月の労働時間は300時間を超えている。休みの日は疲れてほとんどなにもできないことも多い。内容のあるものを書くために研究したり取材したりすることもままならない。なにかの役に立てばと思ってウェブサイトを作れるようになろうと勉強をはじめた。wordpressができれば転職もすこしは楽になるだろうと思う。まずは労働時間を減らすために転職するのか、いまいる会社で労働時間が減るのを待つのか、がんじがらめにメンタルを削られる状況だ。なにをやろうとしても枷が働く。じぶんはただ穏やかに暮らしたいだけで、とくに大金持ちになりたいわけでなく、そもそもたいして欲もないから自然に慎ましく暮らせる。じぶんとその家族の暮らしがあるていど守られればなにも要らない。音楽を聴く時間と本を読む時間、それからそれらを創る時間を確保できるのが一番理想だ。どうして他人の底知れない欲望にじぶんの理想が食い潰されねばならないのか甚だ疑問だ。

このところ働きすぎからか不寛容な気分になっていてよくない。どうしのぐか、どうやり過ごすか、時間をかけて縄をほどくしかないらしい。

被差別

交換可能性の話をちゃんと終わらせたいところだがじぶんは思考が散漫な傾向を持ち、いまは交換可能性とは別なことを考えている。目下、ツイッター社前デモについて思う。文学を考える上で差別に対してなにかしらの態度を持つことは避けられない。言語は常に差別的である。言語によって指示されるものは絶対性を持ち得ない。いつもなにかとの相対性によってその輪郭を保つ。むつかしい言い方のような気もするがまあ光があるから影があるんだくらいの、それをもうすこし複雑にしたくらいの感覚だ。差別はじぶんたちが思っているよりずっと身近だが、言い出せばキリがないから偉い人たちがいろいろ議論して定義に近いものを導いている。人種、性別、その他あらゆる属性を判断基準にすること。日本人は生魚を食べる、これは差別ではない。日本人だから生魚だけ食っていろ、これは差別だ。納豆とかも食べる。当然パスタやパンも食べる。日本人はなんでも食べる、これは差別ではない。日本人だからうんこでさえ食べる、これは差別だ。

赤ん坊は差別対象だろうか。家で泣きわめく生後2カ月の娘を見て思う。この子はわれわれ夫婦の庇護下にあり、社会から守られた存在だが、守るのはなぜか、弱いからだ。ひとりでは生きられないからだ。赤ん坊だから、弱いから、ひとりでは生きられないとわれわれが判断するからだ。母乳ばかり飲まされている。彼女は母乳をしこたま吸ったら満足して眠る。人が幾千年も営んできた当たり前の風景だ。そこに異論はもちろんない。だが差別が存在するかどうかで言えばあるとじぶんは思う。「あっていい差別」などという言葉は、倫理的に断罪されるべき言葉だが、個別の満足感があるなら、と思う。

赤ん坊は乳が得られなければ泣く。おむつの中のうんこが不愉快なら泣く。それでいい。それは被差別への抵抗のように思う。眠たければ泣く。泣かれてもこちらは眠気に対してなにもできないのだが、まあ泣く。泣けばいいのだ。わめき散らして、その権利を獲得すればいい。乳をよこせ、おむつを替えろ、なんせわれわれ赤ん坊はなんにもじぶんでできやしない、赤ん坊がじぶんひとりで乳を得られる社会や科学技術なんかを頭のいい大人が生み出せないなら、手足の自由に動く大人が与えなさいよ。与えてくれよ。これでいいのである。被差別への抵抗は、ただわめき散らしたり泣いたり激昂したりすることでいいのだ。それは文章や音楽や、他のいろいろな表現方法に代えてもいい。そうやって人はなんでも獲得してきたんだもの。歴史は進むのだ。

デモについてはどうだろう。被差別の人々が泣いたり激昂したり。それでいいと思う。だがその計画性に難がある、とじぶんは思う。その目的は差別を解消することであり、差別主義者を断罪することではない。いや、個々は断罪したいだろうし、傷つけたいだろうし、差別主義者を皆殺しにしたいという人がいてもおかしくないだろう。しかしながらそれでいいのだろうか、それで平和は訪れるのだろうか。難がある、というのは善し悪しを言うのではない。効果的ではない、と思うのだ。

きょうも書ききれずに眠くなってしまった。じぶんは労働が憎いです。はい。

記憶がない

記憶力がべらぼうに弱いらしい。そういえば学生時代も社会や理科などの科目は苦手だった。数学の公式も覚えられない。英単語もいまいちだ。それでも勉強はそこそこできた。良く言えば理論派というか、根幹(というやつが中学や高校の学習において存在したらば)をつかむのが得意だった。そこにまとわりつく知識はすぐに忘却の彼方だ。学業に限らず、あらゆることを忘れる。ちょっと労働に励んだだけでいろんな言葉を忘れた。こないだは蓋然性の意味をど忘れして調べた。情けない話だ。

フリーターとして過ごした二年間ほどのあいだ保険証を持っていなかった。年金も国民保険もなにも払わない、とんだフーテンだなあと思う。普通運転免許も持っていないから、じぶんがじぶんであることを証明するには、役所で記憶を照合するしかなかった。住んでいる場所、父母の名前、生年月日、親がちゃんと日本国民として登録してくれていた内容に縋ることで住民票を得、その住民票を印にしないとじぶんは喋る肉塊という称号しかつかない。これはなかなかに怖かった。他人から見てじぶんは、なんとか人のかたちをしているが、概念的には木っ端微塵なのだ。あと記憶力が弱いから父母の誕生日まで訊かれていたら非常にまずいことになっていたと思う。金があってもiPhone5sなんかはまず手に入らない。金もなかったからiPhone5は手に入らなかった。

記憶があればじぶんを証明できるというのも恐ろしい。じぶんは警戒心がドードーくらい薄いので、両親の名前なんて訊かれればすぐに答えてしまう。似顔絵を描かれて似てなかったことがないほどシンプルでわかりやすい顔をしているので、これも唯一性のないものだから、やっぱりじぶん以外の人間がじぶんを騙ることは簡単に思う。騙るメリットの無さだけがじぶんを守っている。SNSでも有名な人たちは偽のアカウントが登場したり言ってもないことを言わされたように偽装されたりでもみくちゃだ。言ったの言わないのでしっちゃかめっちゃかしている。

交換可能性という言葉がある。ここにたどりつくまでに話が長くなりすぎて眠いので寝る。レビューも書きかけ、書きたかったことも書きかけ。仕事を残したまま寝る訓練をすることも大事だと労働に従事してよくわかったのだ。

はやくも

はやくも一日サボってしまった。仕事のない日だったので忙しかった。そばに本があれば読書を、ギターがあれば練習を優先してしまうのでしかたない。とはいえいちおうブログのことも考えた。くだらない人間のことをただ垂れ流してもくだらないだけなのでなにかレビューとかをやろうと思った。じぶんは小説が好きで、音楽も映画も好きだから、他人の作った素晴らしいものを紹介することくらいできるだろうと思う。バズってほしい。切実に。他人の作ったものにあやかりたい。たかり根性が染みているらしい。

たかり根性といえば、それはほんとうにどうにかすべき問題のように思う。あくまで体感だが、じぶんの非を認めない人の多くは、悪と決められた先のたかりが怖いのだろう。財産を奪われること、あるいは生命や身体に危害が及ぶこと、ほかに大事なものを傷つけられたり失わされたりすること、こういうことが怖いのは当然だろうが、悪と決められた途端その危惧があるのはおかしい。犯罪者にしろ悪人にしろそこにも人権があるということがどうしても想像できないのはたかり体質のせいだと思う。資源の少ない島国だからだろうか。それとももっと根源的な人間の本能の問題で、日本の思想が遅れをとっているからだろうか。すべては想像の域を出ないが、たかりと見下しとはいつもじぶんの人生につきまとってきた。見下した相手からはたかっていいのだ、という理念めいたものがいつもそこかしこにある。また見下された者、罪をおかしたり、じぶんは下等だと思っている者は、たかられることに抵抗しない。他人から奪うことでしか富を得られないと考えている人が、じぶんの周りにはたくさんいる。そしてそこには、悪しきことに、加害者然としたものはかけらも感じない。石原吉郎は、加害者からしか人間は生まれない、と言った。実にそうだと思う。想定されるいくつかの意味において、実にそうだ。

ツイッター上のじぶんのタイムラインでは、ツイッター社前デモについて盛んに議論が交わされている。在日と呼ばれる方々が受ける差別の暴風はじぶんの想像をずっと超えるものだろう。信じがたいような侮蔑の言葉を投げかけられているだろうと思う。はっきりと、じぶんがどちらかの陣営に立ち、このデモの是非について明確な意見を持てたらどんなにいいだろうと思う。答えが出ないのではない。じぶんには学が無く、彼らに語るべき言葉を持たない。ただ、まったく嘆かわしいことに、やはりくだんのデモから感じたものは、被害者たちの悲痛な叫びだった。そしてその熱狂であり、連帯だった。

文体

じぶんの文章を読み直して、やっぱり、と思った。じぶんは子どものころからずっと読書が好きで小説ばかり読んでいた。だからやっぱりじぶんの文体は小説用にできている。思ったことを綴りたいだけなのに小説チックになってしまう。これは困ったことだ。できたら社会派ブロガーになりたかった。社会派ブロガーになってなにかの機会にSNSとかでバズってアフェリエイトで稼ぎたかった。SNSとかでバズってアフェリエイトで稼いで、たいした知識も見識もないのに社会派をきどって偉そうなことを書いては炎上してじぶんは社会にたいしてなにか言っているような気分になって、全能感に浸ってみたかった。残念ながらじぶんの文体はどこまでも内省的らしい。バズればいいのになあ。

小説が好きで文学部を志望した。志望校もすべり止めも文学部しか受けなかった。文学部を卒業する優秀な学生は雑誌の編集やライターに就く。あるいは国語の教師になりたくて文学部に入る。落ちこぼれたちはぜんぜん文学とは関係のない職に就いて、たいてい燻る。会社にも社会にも違和感がある、あるいはもっとミクロな人間関係の軋轢に苛まれ、歯がゆい思いをしながら生きていく。じぶんはその典型で、大学を卒業してから小説を書きたいきもちからフリーターになり、計画性もないくだらない人間ゆえに恋人を孕ませてアルバイト先にそのまま就職した。じぶんはくだらない人間だと思う。くだらないことは嫌じゃない。人はみんなくだらないし、くだらなくてからっぽであることは美しいと思う。ああもっとくだらないことを書きたいのに。じぶんのなかに切迫したものがあると書かずにはおれない。あと月々300時間も働いていると思考も鈍るし語彙力も低下するしで本当にいいことがひとつもない。要するに300時間も働いているばかげた状況を脱したいからブログがバズらないかななんて思っているということだ。

転職を考えてはいるがなにしろ就職活動がとことん下手だ。履歴書が弱い。バカヤロウ、こんな紙切れで人ひとりの良し悪しがわかってたまるかというきもちがある。一度きりの面接で人生左右されちゃたまんないぜというきもちがある。人はみんなくだらないということを忘れて、人が人を選び、あたかも優れているかのように振舞うことがキモい。「キモい」のだ。じぶんにとって「キモい」という感覚はじぶんの人生を大いに妨げる。媚び諂うことはキモい。あとラーメン屋を行脚してまわりいちいち評価をつけることもキモい。それからインチキ健康志向もキモい。ブログがバズったらじぶんにたいしてキモいなと思うだろうし、そもそもバズるって言葉はかなりキモい。キモいことが多すぎて喋るのが下手になった。こないだ面接を受けた会社では、文章を構築するのが上手いなら話すのも上手いはずだ、という旨のことを言われて、バカじゃないのかと思った。話すということと書くということは根本的にまるで違う。言葉を使うという点だけが共通する。大豆を使って醤油を作るか豆腐を作るかってくらい違う。

一日のうちにコマ切れの少ない自由時間で書くと短い文章のなかで話題があちこちに向く。これは勘弁してほしい。社会派ブロガーへの道は遠い。