はやくも

はやくも一日サボってしまった。仕事のない日だったので忙しかった。そばに本があれば読書を、ギターがあれば練習を優先してしまうのでしかたない。とはいえいちおうブログのことも考えた。くだらない人間のことをただ垂れ流してもくだらないだけなのでなにかレビューとかをやろうと思った。じぶんは小説が好きで、音楽も映画も好きだから、他人の作った素晴らしいものを紹介することくらいできるだろうと思う。バズってほしい。切実に。他人の作ったものにあやかりたい。たかり根性が染みているらしい。

たかり根性といえば、それはほんとうにどうにかすべき問題のように思う。あくまで体感だが、じぶんの非を認めない人の多くは、悪と決められた先のたかりが怖いのだろう。財産を奪われること、あるいは生命や身体に危害が及ぶこと、ほかに大事なものを傷つけられたり失わされたりすること、こういうことが怖いのは当然だろうが、悪と決められた途端その危惧があるのはおかしい。犯罪者にしろ悪人にしろそこにも人権があるということがどうしても想像できないのはたかり体質のせいだと思う。資源の少ない島国だからだろうか。それとももっと根源的な人間の本能の問題で、日本の思想が遅れをとっているからだろうか。すべては想像の域を出ないが、たかりと見下しとはいつもじぶんの人生につきまとってきた。見下した相手からはたかっていいのだ、という理念めいたものがいつもそこかしこにある。また見下された者、罪をおかしたり、じぶんは下等だと思っている者は、たかられることに抵抗しない。他人から奪うことでしか富を得られないと考えている人が、じぶんの周りにはたくさんいる。そしてそこには、悪しきことに、加害者然としたものはかけらも感じない。石原吉郎は、加害者からしか人間は生まれない、と言った。実にそうだと思う。想定されるいくつかの意味において、実にそうだ。

ツイッター上のじぶんのタイムラインでは、ツイッター社前デモについて盛んに議論が交わされている。在日と呼ばれる方々が受ける差別の暴風はじぶんの想像をずっと超えるものだろう。信じがたいような侮蔑の言葉を投げかけられているだろうと思う。はっきりと、じぶんがどちらかの陣営に立ち、このデモの是非について明確な意見を持てたらどんなにいいだろうと思う。答えが出ないのではない。じぶんには学が無く、彼らに語るべき言葉を持たない。ただ、まったく嘆かわしいことに、やはりくだんのデモから感じたものは、被害者たちの悲痛な叫びだった。そしてその熱狂であり、連帯だった。