被差別

交換可能性の話をちゃんと終わらせたいところだがじぶんは思考が散漫な傾向を持ち、いまは交換可能性とは別なことを考えている。目下、ツイッター社前デモについて思う。文学を考える上で差別に対してなにかしらの態度を持つことは避けられない。言語は常に差別的である。言語によって指示されるものは絶対性を持ち得ない。いつもなにかとの相対性によってその輪郭を保つ。むつかしい言い方のような気もするがまあ光があるから影があるんだくらいの、それをもうすこし複雑にしたくらいの感覚だ。差別はじぶんたちが思っているよりずっと身近だが、言い出せばキリがないから偉い人たちがいろいろ議論して定義に近いものを導いている。人種、性別、その他あらゆる属性を判断基準にすること。日本人は生魚を食べる、これは差別ではない。日本人だから生魚だけ食っていろ、これは差別だ。納豆とかも食べる。当然パスタやパンも食べる。日本人はなんでも食べる、これは差別ではない。日本人だからうんこでさえ食べる、これは差別だ。

赤ん坊は差別対象だろうか。家で泣きわめく生後2カ月の娘を見て思う。この子はわれわれ夫婦の庇護下にあり、社会から守られた存在だが、守るのはなぜか、弱いからだ。ひとりでは生きられないからだ。赤ん坊だから、弱いから、ひとりでは生きられないとわれわれが判断するからだ。母乳ばかり飲まされている。彼女は母乳をしこたま吸ったら満足して眠る。人が幾千年も営んできた当たり前の風景だ。そこに異論はもちろんない。だが差別が存在するかどうかで言えばあるとじぶんは思う。「あっていい差別」などという言葉は、倫理的に断罪されるべき言葉だが、個別の満足感があるなら、と思う。

赤ん坊は乳が得られなければ泣く。おむつの中のうんこが不愉快なら泣く。それでいい。それは被差別への抵抗のように思う。眠たければ泣く。泣かれてもこちらは眠気に対してなにもできないのだが、まあ泣く。泣けばいいのだ。わめき散らして、その権利を獲得すればいい。乳をよこせ、おむつを替えろ、なんせわれわれ赤ん坊はなんにもじぶんでできやしない、赤ん坊がじぶんひとりで乳を得られる社会や科学技術なんかを頭のいい大人が生み出せないなら、手足の自由に動く大人が与えなさいよ。与えてくれよ。これでいいのである。被差別への抵抗は、ただわめき散らしたり泣いたり激昂したりすることでいいのだ。それは文章や音楽や、他のいろいろな表現方法に代えてもいい。そうやって人はなんでも獲得してきたんだもの。歴史は進むのだ。

デモについてはどうだろう。被差別の人々が泣いたり激昂したり。それでいいと思う。だがその計画性に難がある、とじぶんは思う。その目的は差別を解消することであり、差別主義者を断罪することではない。いや、個々は断罪したいだろうし、傷つけたいだろうし、差別主義者を皆殺しにしたいという人がいてもおかしくないだろう。しかしながらそれでいいのだろうか、それで平和は訪れるのだろうか。難がある、というのは善し悪しを言うのではない。効果的ではない、と思うのだ。

きょうも書ききれずに眠くなってしまった。じぶんは労働が憎いです。はい。